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監督インタビュー:「追憶」小栗謙一監督~戦場とは何か
Categories: 文化・アート

 

Q:このテーマ(ペリリュ―島での戦闘)を描こうと思ったきっかけ、このことに出会ったきっかけをお聞かせください。

小栗謙一監督

小栗謙一監督:フリーランスの助監督で主に中平康氏に師事。その後映像集団㈱ディレクターズシステムを設立

小栗監督:天皇皇后両陛下がペリリュ―島で戦没者の碑に献花した(2015年4月)シーンを見たのが、この映画を作るきっかけです。たぶんあの報道が「ペリリュ―」ということを思い起こすきっかけになった日本人が多いのではないかと思います。私も、その1人でした。戦後70年の訪問の重要なポイントとして、ペリリュ―島に行かれるということは、ちょっと意外でした。

敢えて(戦後)70年にという所に選ばれたーこれは何か意味があるんだろうか。意味があるとすれば勉強不足だったんだなぁという感じでニュースを見ていました。それでちょっと調べてみると、それなりに意味のあるということが少しずつわかってきました。

そうこうしているうちに実は、タイミングがポンと合うようにプロデューサーの奥山(和由)さんから普段あまりない電話があって、「ペリリュ―島ってどう思う?」と。「今僕も考えていたところなんだ」と言ったら、「ちょっと映画の企画で考えたいんだけど今から会わない?」と言われた。

その時東京にいなかったんですが、今すぐにでも会いたいという感じでした。そいう時って、すでに自分の中で映画を撮ることを決めていると思ったんです。これはその情熱が冷めないうちに会った方が良いなと思いましたから、引き返して会って話をしたら、この映画の原案になっている升本(喜年)さんの本(『愛の手紙』)を1冊持って、「この本読んでおいて。読んだらもう1度会いましょう」ということになったんですね。

それで、1・2日で読ませていただきました。本の骨になっているのは。タイトル通り愛の手紙で、中川(州男=くにお)大佐が奥様に宛てた手紙は、文面としては淡淡としているんだけれども、やはり作戦を隠しながらも妻を慈しんでいるという手紙です。それを柱にして、中川州男という1人の日本の軍人を描いているわけじゃないですか。

だけど、そのことと両陛下が(ペリリュ―島に)行かれたこととは全く無縁なことなので、中川さんを通してペリリュ―島で何があったかということを描けたら。それは1つ自分自身の疑問に対しても答えを出せるし、多くの人もそうだと思うのでそれを共有する映画を作れれば良いなと思ったんです。

中川州男大佐の結婚写真 c 2015「追憶」製作委員会

中川州男大佐の結婚写真 c 2015「追憶」製作委員会

まずは、中川大佐という1人の人間の手紙をきっかけとして入り込んでいくという描き方はあるなと、割と人間臭いところから入っていこうと思ったんです。それで中川さんの親戚のところに訪ねていくと「手紙はない」とおっしゃる。奥様が亡くなったあとに遺品を始末したらその中に手紙があって、「捨てました。はっきり覚えています」と言うので、ああこれはないんだと。

現物の手紙がないとなると、あの本から読み解く文面だけだと非常に淡淡としていて、あまりドラマがないんですね。ですから、映画としてはちょっと難しいなと思い出した。だけど、ペリリュ―島を中川さんを通して描かれている戦闘を描くと恐らく陛下が行った意味が見えてくると思いました。

それで、戦闘そのものを調べ始めた。日本国内で調べるとすると、防衛省の防衛研究所の図書館にある本など。それから、中川さんが熊本の方なので、熊本の家族や親戚の所に何か残っているかもしれない。例えば日記のようなものとか、兄弟が書いている中川さんのこととか戦争の話とかを見てくると良いかと思ったんですが、どうもそれもなかったんです。

そうこうしているうちに、日本には戦争特にペリリュ―島についての映像も写真もないということがわかったんですよね。熊本の陸上自衛隊には、中川さんをお祀りしている資料館みたいなものがあるんですけれども、そこも中川さんの偉業を称えるためのものを、戦後自衛官たちが手書きで書いたものだったんですね。

第8師団結団50周年記念DVD

第8師団結団50周年記念DVD

第8師団が作ったDVD(写真)があるんですが、こういう非常に手づくりな感じのものでした。中に入っているのは写真で、今でもペリリュ―島に置き去りにされた戦車の残骸とか洞穴を撮ってきただけのものと、初期のころの手書きアニメに近いようなCGなどで作っている。全部使って良いとのことでしたので、参考にさせていただきました。

そういう中で、おそらくアメリカに記録として残っているかもしれないということで、公文書館に行って調べてみたら映像があるんですね。カラーの物もある。そういうものを集めてやれないかなぁと思いました。

分量としては、あまり多くなくて困ったなぁという感じだったんですが、「ここにあるものは、元もとは米海兵隊の基地の歴史部にあった映像をパブリックドメイン(著作権などの知的財産権が消滅している状態)用として公文書館にもらったもので、大本にはもっとたくさんあるはずだ」という話を聞いて、大本に行きました。フィルムで残っていましたが、そう簡単に貸せるものではなくて米国の国防総省の許諾を得たものでなければいけないということでした。

そこで、今度は国防総省に行くことになりましたが、そのためにはちゃんとした企画・プロット(あらすじ)・シナリオを出す。何度か審査があって、2カ月くらいかかりましたけれども、やっと許諾をもらって契約に至りました。

契約したものに関しては、そこにある映像を全部使えることになったのですが、あくまでもこの映画に限るということ、作る段階で何度か適切な使用の仕方をしているかどうかのチェックを受けること、それを怠った場合にはその段階でストップする、という話です。これは守らなければ先に進まない話なので、アメリカにいる知り合いの弁護士を通して国防総省とやりとりをしました。最終的にできあがったものに対しては、何度か修正もありました。「この表現がおかしい」とか「これはちょっとアメリカとしては」ということもありました。

でも、それは理にかなった文句であって、(宮沢「隠すためではなくて?」)隠すためではなくて指摘されればなるほどと思うものだったので、僕はチェックを受けたことが良かったと思っています。

こっちも、「ここはこういうふうにしたいんだけど」「これはここで使いたいのだけど」と言うと、向こうも非常に紳士的に考えてくれてちゃんと回答をくださった。断わる場合には、理由があって断わるということでした。すごくしっかりしたシステムだと、感じました。

そうやってできた映画の中で、僕自身が最初に思った「陛下がなぜ70周年でペリリュ―なのか」の答えに近いものが少しずつ見えてきたんです、日本には玉砕という言葉がありますね。ただ単に降伏ではなく玉のように散るという1つの美学のようなものを設定しているわけですよね。ただ無駄に死んでいくわけではなくて、死に1つの価値観を見出していくということだと思います。

それは兵士たちを1つの価値観で操つるための便宜としか思えませんけれども、日本がアメリカ軍に追い詰められてきた1944(昭和19)年に入ってからは大物量によって圧倒的にやられていくわけですよね。

その中で、もう絶対に無理だと。ペリリュ―島の映像でD-デイ(戦略上重要な日)に海に浮かんだ圧倒的な数の艦船がボッと来た時に、おそらく島にいた日本兵は無理だ、これはもう殺されてしまうんだと思ったと思います。

ペリリュ―島全景 c 2015「追憶」製作委員会

ペリリュ―島全景 c 2015「追憶」製作委員会

普通だったら2カ月くらい前から始まっていた「万歳玉砕」=「天皇陛下万歳」と言って玉に向かって走り出す。次つぎにバタバタと死んでいって数日間で日本兵はいなくなるという玉砕の仕方を1つの美学としていた。だけども、この戦いから指揮官は、「死ぬな」と命令するわけですよね。それは、無暗に死ぬな、最後まで生きろ。そして、相手を1人でも多く倒せということを鼓舞するわけじゃないですか。

なぜそこで作戦が変わったかということを考えてみると、おそらく1944年の末に日本もこれ以上戦うことはできない、このまま戦えば1億総玉砕という事態になるということを考え、和平を考えたと思うんです。戦争をどうやって終わらせるか。

だけど、当時外交手段がなくて、外国に頼むと言っても同盟を結んでいたドイツやイタリアはすでに壊滅寸前状態でそこを頼るわけにはいかない。後は全部連合国側で、ソビエト(当時)は不可侵条約を結んでいたので頼もうとしていたのですが、どう出るか全くわからない状況の中だった。

だから、時間をかけなければいけなかったんだと思います。その「時間をかける」が、生きろという言葉に変わってきたのではないですか?だから、2・3日と言われいた戦いが、結果70日持った。そんな戦いはペリリュ―が初めてじゃないですかね。その作戦の変更は、中川大佐が考え付いたことではなくて、日本の全体がそういう動きに変わった戦いだったのではないかと僕は思います。

それはアメリカ軍にとっても同じことが言えて、2・3日で済むと思ってみんなにステーキを食べさせて「気楽に行ってこい」と送り出したら、2・3日の間に2000人近い人が死んで、結局ペリリュ―島では2300人が死に8000人が負傷しているんです。

それが次つぎと戦いが続いていくとすると、アメリカ自体も大変な事態に陥ることになりますね。そんな事態になったら、おそらくベトナム戦争が見せているような、アメリカの政治そのものがおかしくなっていくような危機を覚えたんじゃないかと思います。そのペリリュ―の意味は、そういうことだと思います。

だから、基本的にこのペリリューから日米が双方とも別個に、戦争をどう終わらせるかということを考え始めた大きな岐路だったのではないか、と僕は最近思うんです。だからこそ、70年という意味を持つ。

Q:膨大な資料や証言の中で、1番衝撃的だったことは何ですか?

ペリリュ―島島民のローズ・日本名テルコさん

ペリリュ―島島民のローズ・日本名テルコさん    C 2015「追憶」製作委員会

小栗監督:僕がこの映画を作り始めて映像を見て1番感じたこと・1番観ていただきたいのは、「戦場とはなにか」ということです。戦場は、僕も戦後の生まれだから知らないですね。今90歳を超えていないと戦場を知らない世代だと思うんです。。

だから、戦場とは何かということを映画を通じてしか、疑似体験できない。それも、ドラマでは作り物になってしまって。ドラマは、僕がなぜダメかというと、ドラマでは必ず戦場に英雄が現れたりするんですよ。それから、うまいこと逃げられる抜け道を作ったり、そこにラブが出てきたり。でも、戦場にはそんなことないんです、多分。抜け道もなければロマンスもない。夢もないんですね。

それが、今回のアメリカの映像を編集してわかったことです。どこに逃げても逃げ道は見つからないですね。憎しみもないんですね。ただ草木を燃やすように、ただ作業しているだけの感覚しかないようにしか見えないですね。だから人を殺したって、そこに感情はわかないんだと思うんです。それが戦場なんじゃないかと思います。

戦争というものを語るのであれば、そういうことを理解した上で語っていかないといけないんじゃないかと思います。

Q:この映画を作るときに、今の日本の動きなどを意識しましたか?

小栗監督:当然、意識していますよね。やっぱり、70年間戦争していなかった国であったとしても、いつも危ない所を渡ってきていた。それは、たまたま戦争には至らなかったけれども、戦争は止めようという人でも暴力・武力を使うということになっていく。多分、みんな平和を求めている作業だと思います。その平和を求めている作業によって、暴力がまた生まれてくる。

だけど、暴力の究極の状態=戦争・戦場は、1度生まれてしまうと、どういうことになるのか?それはまさに、この「ペリリュ―」を見ていただくとわかると思けれども、もう抵抗しようがなにしようが、なんの効力もない。そうなってしまう。だから、僕らが今やらなければいけないことは、「いかに戦場を作らない社会を作るか。戦場を作ってはいけない。そこに知恵を働かせる」ということだと思います。

ところがそうではない、未だに武力が抑止力だという・思うというか。理論上いうことは簡単だと思いますよ。でも、1度武力が行使されてしまうとそれが連鎖を生んでこういうことになるんだよと。70年前の兵器でこうなっちゃうわけですから、今の兵器だったら、こんなスピードじゃないですよ、もっと早いでしょう。そういう議論にしていかなければいけないということでしょう。

初めはちょっと抵抗もあったんです。アメリカ側・アメリカ人の眼で見た映像でしょ。カメラは全部島を向いている。それで果たして良いんだろうかと思いましたね、写ってリうのは全部アメリカ兵で。だけど、編集して見たんだけどそういうふうには見えなかった。戦場というのは、どっち側から見ても、同じだという感じがしましたね。

宮沢:それは、撮っている時にも感情で撮っていなかった、目の当たりにしていることをそのまま撮っていたということでしょうかね。

小栗監督:そうでしょうね。おそらく、感情で撮ろうと覆ったカメラマンもいたかもしれないけれども、そんな余力はなかったんですよ。たぶんカメラを回して、そこに写ったものだけじゃなかったかということだと思いますね。意図がないんですよね、意図する暇がなかったということだと思います。

【インタビュー・写真=宮沢さかえ

追憶チラシ

c 2015「追憶」製作委員会

■ 「追憶」公式ウェブサイト

11月5日(土)より東京都写真美術館ホールにてロードショー/Denkikan 、千葉劇場ほか全国順次公開

監督:小栗謙一/2015年/76分/太秦