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チェルノブイリ原発事故の汚染地域で暮らす「サマショーロ」と呼ばれる人々を丸木美術館に訪ねる

 

サマショーロと呼ばれる人たち

サマショーロと呼ばれる人たち(貝原 浩画文集「風しもの村」パロル舎) 画像提供:パロル舎

 
 はじめに

 6月25日の「朝日新聞」朝刊(13版)第6面で、3つの見出しが目に留まりました。

  ・福島、30万人に線量計 15歳未満と妊婦

  ・福島の住民15人 尿からセシウム

  ・福島県内の積算放射能線量

 この積算放射能線量を見ると、

  ■浪江町赤宇木(福島第一原子力発電所から北西31キロ) 

    3月23日からの積算=44.53ミリシーベルト

    6月24日の大気中の放射線量=18.8マイクロシーベルト/毎時

  ■飯館村長泥(同 33キロ) 

    3月23日からの積算=24.89ミリシーベルト

    6月24日の大気中の放射線量=2.77マイクロシーベルト/毎時

  ■福島市杉妻町 (同 62キロ)

   3月24日からの積算=1.532ミリシーベルト

  ■川内村上川内早渡 (西南西22キロ)  

   4月2日からの積算=0.764ミリシーベルト

  1ミリシーベルト(年間)は、毎時だと0.114マイクロシーベルトです。 福島市杉妻町では、事故発生から3カ月ですでに1.532ミリシーベルトと1年間の基準値を超えています。そして、赤宇木の6月24日の毎時18.8マイクロシーベルトが1年続いたと仮定して計算すると、18.8マイクロシーベルト×24時間×365日=16万4688マイクロシーベルト。つまり、164ミリシーベルト/年という途方もない数字になります。

 従って 「福島県、30万人に線量計」 という事態なのでしょう。 淡々とした小さな記事ですが、とても恐ろしい現実を語っています。

 それから、広河隆一氏の著書『暴走する原発』によると、氏のチェルノブイリ取材経験(1989年)による放射能の数値は、「爆発した4号機から4Km離れたプリピャチ市(現在廃墟)は、平均毎時3から4マイクロシーベルト。・・・中略・・・チェルノブイリ事故後の91年2月にウクライナ議会が可決した『汚染地域の定義』によると、『無条件に住民避難が必要な地域』は5ミリシーベルトとされている。 福島県が決めた学校児童の基準値・年間20ミリシーベルト(日本の児童に関する基準値)は、チェルノブイリ事故で強制避難が定められた数値の実に4倍にあたる。>(5・6ページより)と書かれています。

  このチェルノブイリの値を先ほどの朝日の記事の値とだけ比べてみても、現在の日本の飛散放射線量は、素人の私でも一体どう理解すればいいのかわからない位の値です。 チェルノブイリ並みのレベル7となった福島原発事故。これから放射能の被害が、もっと目に見える形で出てくると思います。それをキチンと考えるために、チェルノブイリでの現実をさらに知りたいと思いました。

丸木美術館と企画展「チェルノブイリから見えるもの」 

丸木美術館入口
丸木美術館入口

 丸木美術館は、埼玉県比企郡の都幾川のほとり、のどかな田園風景の中に豊かな緑につつまれるようにひっそりとたたずんでいる美術館です。ここには「原爆の図」で有名な丸木位里・俊夫妻のアトリエ兼住居もあります。

   ご夫妻の平和を希求する気持ち、反原爆・原発の意思は次のようなエピソードによく表れていると思います。 それは、館内に展示してあった「西日本新聞」6月4日の記事によるもので、<1989年1月の福島第2原発のポンプ損傷事故をきっかけに設備率から独自に算出した原発による電力分として、電気料金の24%の支払いを拒否。東電は送電を停止し、美術館は1年以上自家発電で対応した。当時の美術館ニュースに俊さんは「原発を止めなければ原発に殺される」と書いている>。

丸木夫妻の住居

丸木位理・俊夫妻のアトリエ

 目黒美術館で予定されていた「原爆を視る展」が3.11の震災により中止となり、そのため同時開催を企画していた丸木美術館での「《原爆の図》とその周辺」展も急遽変更されて、「チェルノブイリから見えるもの」展を5月3日から開催する事となりました。とても好評なために、6月25日まで延長されていました。

  さて、福島原発事故は発生から3カ月を過ぎた現在も、確たる収束の兆しも見えず、放射能は漏れ続けています。1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故。放出された放射能は世界中に巻き散らされましたが、特にウクライナおよびベラルーシでは広範囲が高濃度放射能汚染となりました。現在でもチェルノブイリ原発の30キロ圏内は立ち入り禁止となっています。そしてホットスポットは原発から200キロ以上の範囲にも広がっているのです。

 その広範囲に及ぶ汚染地域、そこに一時避難したものの戻ってきて生活をしている人々がいると聞いていました。その方たちはどのような生活をされているのか、その答えをこの企画展に求めました。

 

 スケッチと写真

風しもの村 まず、一番大きな企画展示室には、画家・貝原 浩氏(1947~2005年)の作品。「風しもの村」というテーマで大きなスケッチ画が展示され、14枚もの大きな作品が広い企画展示室の壁いっぱいに掲げられています。

  貝原氏が92年2月に写真家の本橋成一さんとベラルーシのチェチェルスクという村(チェルノブイリ原発の風下約180キロ北側)に初めて入った時に描いたものです。そのあと5月にも訪れ、廃墟となったプリチャピ市や石棺(4号廃炉)も描いています。スケッチといっても、ほとんどが1.8m×0.65mのサイズの大きな紙で、そこには黒い鉛筆の力強く且つ繊細な筆遣いと、鮮やかな色彩で生き生きとした村人たちの様子が描かれています。

  大人・子ども・老人・馬・村の生活の様子、祭りの様子、結婚式の様子、とても避難地域・汚染された土地に住む人達とは思えません。しかし、彼らは原発事故後6年目の汚染された地で、汚染された水を飲み、作物を食し、生活しているのです。子どももいますが、その子どもたちは「森や川に入ったり、キノコを採ったりしてはダメ」 と言われているのです。

  それぞれの作品には絵本のように文章が書かれています。入口近くにある作品に添えられた文章が今回の「チェルノブイリから見えるもの」展のすべてを物語っていると感じました。そのまま書き抜きます。

 <「サマショーロ」と呼ばれている人達がいます。それは行政の指導に従わないで、立ち入り禁止に指定された村に戻ってきたり、出てゆこうとしない『わがままな人』という意味です。長い時間をかけて畑を耕し、日々の営みの全てをその土地にゆだねてきた人達です。そして、老いの残り少ない時を、その土地で生き切りたいと願い覚悟して戻ってきました。汚染された土地からの、秋の収穫を半年に及ぶ冬に備えて地下倉にたくわえ、収穫の喜びにはサマゴンというドブロクをつくり祝うサマショーロがいました。」

広河隆一写真展示

広河隆一写真展示室

  別の企画室に展示されている広河隆一氏(1943年~)と本橋成一氏(1940年~)の写真も、汚染地域での人々の様子を写したものです。

  広河氏の作品は、1989年から2009年にかけて撮影されたもので、甲状腺の手術を受ける少女の写真(ミンスク)、汚染された水を幼い子どもたちと汲みに来た老人(べラルーシの村)、美しい松林が事故後放射能のために真っ赤になり、近くを通る人は足に放射能のために火傷を負う(ウクライナ)、ノヴォジブコフは猛烈なストロンチウム汚染地だが、その事実は4年以上も隠されていた。移住先がなく途方に暮れる父親(ロシア共和国プリャンスク地方)、6歳の時プリピャチ市で被曝し、26歳で脳腫瘍で亡くなった若い女性のお葬式の様子(ウクライナ)などなど。12枚の写真がそこで暮らす人々の様子、廃墟となった町や荒れてしまった家屋を見せてくれます。

本橋成一写真展示

本橋成一写真展示室

 本橋氏の作品は、1994年から2004年にかけて撮影されたもの。広河氏の作品と同じく、汚染されたベラルーシの村で暮らす人々を捉えています。 本橋氏の作品には、逞しく生活する子どもも含めた人々が被写体の中心となっているためか、ここが汚染地域だという事を忘れそうです。寒い冬・豊かな春・収穫の様子・のどかな田園風景の平和な生活がそこにあります。でも、それがとてもやりきれない悲しみを逆に感じさせてしまうのです。

 6月27日「朝日新聞」夕刊第一面に、「内部被爆、追跡始まる-予備調査は浪江町、川俣町、飯館村の住民対象に30年以上に亘って行われる予定。夏以降は福島全県民対象に本格調査に映る計画」との記事が出ました。 のどかなウクライナ、ベラルーシの風景と福島の自然溢れる穏やかな風景が重なります。

 チェルノブイリの教訓を私たちはどう生かしていくべきなのでしょうか?

  丸木美術館での展示は終了しましたが、今後全国で巡回すると聞いています。もしもみなさんの近くで見られる機会がありましたら、是非見て頂きたいと思います。
                                        【川越やよみ】

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■ 参考図書1 貝原 浩画文集『風しもの村』

 

■参考図書2 広河隆一 『暴走する原発』