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上映後トーク:「ニッポン国VS泉南石綿村」原一男監督+原告

3月10日に渋谷・ユーロスペースでロードショーが始まった翌日の、「ニッポン国VS泉南石綿村」上映後トークのようす(抜粋)です。【取材=宮沢さかえ】

 

 

原一男監督

原一男監督:柚岡禎一さん(原告のリーダー的存在)に、「泉南の女性はみんな男で苦労している」と聞きました。。映画の中では取り立ててそのことを描いてはいませんが、せっかくの機会なので、その話を柚岡さんに聞いていこうと思っています。

柚岡禎一さん:私が知る限り、アスベストで真面目に仕事をして家族を養った・まず第1に妻に対して生活費を渡したというのは、この2人(赤坂さん・佐藤さん)と、思い出さんとわからんくらいです。私、大阪だったら言わないですよ。気兼ねなくね。西岡東子は、仕事嫌い。のらって言うんです。東京ではなんと言いますか?「のらくらのらくら」してるんですね。男で多いですわ。そのしわ寄せが女の人の過酷な石綿労働に向かわせた。

原監督:松本玉子さんは、在日の人(コリアン)です。韓国からお母さんに連れられて泉南に来て、お母さんも苦労した。自分も苦労した中で結婚して子どもも育て上げて、60歳くらいになって子どもも成長してやっと自分の時間ができて、夜間中学に行って文字を勉強した。

私はあのシーンを見るたびに涙が出てしまうんですけれど、あの松本さんも男で苦労したという話なんです。映画の中では、サラッと流していますし、実際はダンナさんがどういう人でしたか?ということに関しては、そんなに突っ込んでいないんです。

柚岡さんは、かなり具体的にダンナさんのことを知っていらっしゃるんですか?

柚岡禎一さん

柚岡さん:全部は言いませんけどね。そこは、我われ・支援者と弁護士は違うんですよ。「この労働は法に敵っているかどうか、この病気原因はどこにあるのか」を、論理的に説明するのが仕事ですね。我われはそれだけじゃいかないで、その家族の中に入って8年間いろんなことを聞いて、時には涙を流し時には笑いということだったです。とにかく(男が)働かなかったら、女が働くしかない。

原監督:なんででしょうね、アスベストの工場で働くだけじゃなくて、労働そのものが嫌いなんですかね。西村さんのダンナさんの写真を見ると、2枚めじゃないですか。遊び人というか。。。そういう人に惹かれるんですか?泉南の人たちは。

佐藤さんのダンナさんが遊び人で女にモテて、ウチは実は浮気ばっかりして大変だったのよという話はないの?

佐藤美代子さん

佐藤美代子さん:私の主人は、すごく優しいんですよ。優しいから、たくさんたくさん女の人が寄ってきていっぱい泣かされましたけれども、だけど私にも優しいから、ついつい許すところもあるし、仕事はすごく真面目でした。生活費もきっちり入れてくれるし。映画でもあったでしょ?「お前になんか苦労かけたか?」って。女には苦労しましたけどね。
家はきっちり入れてくれたけど、他の女の人と遊ぶときには石綿工場のオチ=機械の下ほこりを吸って肺がんになったり中皮腫になったりする。それをドンゴロスという袋に詰めると、売れるんです。そんなに高くはないけど、ホコリやから。ホコリはほかす(捨てる)もんやから自分は欲しい人に売って女の人と遊ぶのに使うの。

原監督:赤松さん、ばくち好きのダンナさんを持って幸せだったか不幸だったかなんとも言いようがありませんが、ちゃんと仕事はしていたんですか?

赤松タエさん

赤松タエさん:そうですね、仕事はきっちり時間通りに行ってました。隠れてはしない。生活費は、きっちり入れてくれました。私ら子どもがいてなかったから、土日とか飲みに行ったり気が向いたら「パチンコに一緒に行こうか?」と連れて行ってもらいました。

原監督:柚岡さん、西村さんのご主人は本当に働かなかったという話なんだけど、もう少し詳しく話していただかないと。

柚岡さん:そうですね、さっきの「のら」=働かないでフラフラしているという奴が多かったですね。大阪の南部は、繊維産業の場所なんですね。江戸時代から繊維で生きてきた街なんですね。それはやっぱり、長時間労働で過酷なんですわ。汚くて、給料が安いですからね。

そういうことに甘んじる、そういう仕事しかない人が泉南に集まってきた。より最下層の人が石綿の仕事に従事した。そうであれば、人間は何か刹那的なものが好きな土地柄ですね。だからどうしても、そのことが家族にしわ寄せが行ったり、その結果先程から言っている西村さんとか松本玉子さんがそれを背負って仕事せざるを得なかった、そういう現実があるんですよね。

原監督:男の人は男の人なりに鬱屈というものを持っているわけでしょ?つまり、アスベストというような、世間からは評価されないような仕事をするしかないという自分の運命・宿命というものに対して、どこかで欲求不満を取り込んでいるわけでしょ。それが、金が入るとみんな遊興費・飲み代に使っちゃうと。

ただ、それでも女の人は子どもを育てなきゃいけないということで、丁寧にコツコツこつこつ働いていくわけじゃないですか。で、生き方に徹底的に差ができますよね。男はそれでも、生きていられるわけだからね。女の人はそうは行かないもんね。西村さんだって朝早くから働きに行ったという話を聞きました。そういう差は、いっぱいあるわけでしょう?

チラシ表Ⓒ疾風プロダクション

柚岡さん:そうですね。石綿紡織業というのは、2006年まで続くわけですけれど、最後の20年くらいは、もう(働く)時間が短くなった。労働局の規制が入るんですね。WHO(世界保健機構)の勧告・ILO(国際労働機関)の勧告案などもありまして、ホコリのままで仕事ができない規制がかかりました。

その段階では7時間労働くらいなんです。他より短いですね。そこへ行くまでは、長かったですね。元もと基礎的な給与は低いもんですから。それをカバーするのは、長時間労働しかない。そういう環境に男も女もおかれた。男は、どこかに逃げられる。逃げたらダメなんですよ、でも逃げたんですねみんな。

労働組合がなかった。労働者として組織されなかった人の意識は、非常に低い。泉南では、労働組合は1つもない。こんな街は、あんまりないなあと思います。隣の阪南市もね。だから、そういうことが彼らをしてそういう生活態度に向かわしたことがありました。

原監督:柚岡さん、ちょっと確認しておきたいんですけど、アスベストの仕事は汚いし、そんなに楽しい仕事じゃないということで、他の仕事に比べればギャラガ少し良いんだというふうに私は聞いてたんですが。

柚岡さん:どの時点で区切って分析するかにかかるんですけれども、少なくても私は今良いというのは、終息期=1975年以降は労働時間が短くて7時間で、放射能と同じで身体がやられてしまうということで、労働局なんかから指導が入るんです。緩かったんですよ、馴れ合いでね。一応形は、規制がありました。それ以前は、きついもんですよ。中小の繊維業者・繊維産業というものはね。

女の話はキリがないけれど、戯れ歌で「皿を数えるのは女」というのはご存知ですか?みなさん。1枚・2枚3枚という苦労した女の人の話ね。「皿を数えるのは女」というのは、いつの時代でもそうだったということで言うんですが、泉南の場合もそうです。女の人に皿を数えさせましたね。恨みつらみを、彼らはもつやろね。

原監督:割合で言うと、女の人のほうが苦労したというケースが原告では多いんでしょ?
柚岡さん:断然そうです。

原監督:佐藤さんは、ダンナさんの愛情という点では幸せな方だったわけですね。多少の浮気はあったとしても。。。

佐藤さん:私は幸せだったです。

原監督:柚岡さんの奥さんの話は、触れられたくないですか?

柚岡さん:一番最初に映っていましたよ。。

原監督:みなさん、気がつかれたでしょうか?冒頭のシーン=集会をやりましたね、モニュメントができた時。柚岡さんの土地を提供して、モニュメントができたんです。自宅がすぐそばにあって、心配そうに見ている奥さんのワンカットが入っているんです。名前もなにも入っていませんので、気がつかないままに」あの人は誰だろう」と流れているようなシーンなんですけれどもね。

佐藤さん:柚岡さんてね。怒る時は私らでも怒られっぱなし。未だに怒られるけれど、奥さんにはすっごく優しいの。奥さんの言うなり。こんだけ、映画の中でもいっぱい怒ってはるでしょう?厚労省に行っても、ががーっと。私が泣いて訴えても、「泣くな。泣かんで訴えろ」とずっと怒られっぱなしで。だけど、奥さんにはすっごくやさしい。

柚岡さん:そんなことないですよ。ごくノーマルな家庭。僕は、はっきり言うて現在75歳なんですが、株主運動とかいろいろやっていた男なんです。それで65になったら、全て終わって、まぁ悠悠自適で行こか。まぁ、少しお金もあったしね。悪徳業者の1人だから。自営業でずっと作ったものがあったから。それで、そう思っていたんです。

ところが、石綿が来た。石綿になんでそんなもんに、なんで関わったのかと良く聞かれるんですが、1つは義侠心とか義憤があるんですが、それより大きいのは、私の家が実はアスベスト業者なんです。じいさんが泉南で1番最初に作った内の1人なんですよね。防止法の時の。推進法の時代から始めたんですけれども。そこで働いた人に、被害が出た。

もう67年前ですから、中皮腫とかアスベストという言葉はなかったですけれども、明らかに胸の病気で死んだ。もちろん、じいさんもそうだし私のおじが3人いますが2人がアスベストで死んでます。その息子らも、みな石綿肺を患っている。そういう家で被害者であるし、一方それによって財を成した一族なんで、それは僕はずっと自分に負い目としてあったですね。それに、目をつぶらんと来たんです、65までは。だけども、そうも言っていられなくなって運動にしっかり関わってしまいました。

あ、嫁さんのことですか。これはね、僕は「こうや」と思ったらザーッと行く方なんで、それを黙って見てくれた、見さしたという方が良い。見てくれて、お互い干渉せんと今日まで来ています。根場を借りて「ありがとう」と言います。

 

Ⓒ疾風プロダクション

 

会場からの質問
Q1:出演者のみなさんは、この映画を観てどんな感想を持ったんでしょうか

赤松さん:(旦那さんのことを)絶対に黙っておいてください」ということでお願いしたんだけど、監督さんが上手に持って行って、言ってしまってから「監督さん上手に持って行ってるねえ」と思った。それが1番、今でも覚えています。

みんなは(ダンナさんのことを)「お父さん」て言うてはるけれども、私は「おっちゃん」て言うてました。結婚してからずっと、「おっちゃんで良い」って言うてたから、亡くなるまでそうでした。そしたら、みんな「おっちゃんて誰のことかな」って言うてはったから、「え?」って言って笑ってましたけども、本人がエエって言ったからだったんです。

佐藤さん:この映画を監督が撮ると言った時に、私は初め「私らのことを何で映画に撮るんかな」と思いながら、監督のことを全然知りませんでした。なんかのことで「ゆきゆきて神軍」て映画を撮ったすごく有名な監督やということを聞きました。そして私は、どんな映画かな、1回観たいなと思って、監督が「観たい人」と言った時に、真っ先に「観たいです」と言って観させていただきました。そしたら、その内容がすごくて、本当に怖いくらい。「いや、こんな私たちの映画を撮るって「どんな映画になるんだろう」って思いました。

そして、最初の頃はあんまり近づかんようにちょっと離れ気味にしていました。そしたらだんだんだんだん監督の人間性がわかってきて、「この人やったら、もしかしたらエエ映画になるんかな」と思うようになりました。8年も10年もかかった映画だから、その中で、監督ってどんな人かなと少しずつわかるわかるようになってきました、

私は、こんなにしゃべれる人間じゃなかった。ようしゃべらんでおとなしく性格もやさしくて引っ込み思案やったんだけど、柚岡さんなり弁護士さんなりが、「いっぱいしゃべらなくても、つらいことはいっぱい訴えな通じらん(ママ)ど」ということをいっぱい言われてきました。

今は苦しい場面だけど、私にしたらすごい宝物。写真はいっぱいあるけれども、写真はその時で止まっているでしょ?動く映像が、私にしたら宝物やし、私は今でもドキュメンタリー映画を撮ってもらって良かったと、本当に感謝しています。

一時は1年ほど引っ込んでいました。私は、(認定で)線引きされたんやん。これで人前に出て訴えても何の力になるの?何の支えにもならへんのんと思って引っ込んでたん。
だけど、支援者のしのさんという人から「佐藤さん、建設アスベストの裁判があるんやけど、1回出てくれへんか?」と言って。それもずっと断わってたん。だけど家で仏壇の前に座って、「パパ、こんなん言うてきてはるけど、いっぺん支援しに行ってみるわね」って言ったら、苦しいこといっぱい他の人が話はるんや。それを聞いたら、私は引っ込んでいたらあかん、私も線引きされたけどそれ以上にもっともっと訴えなあかんと思って人前に出るようになってきました。私はこの間、映画にすごく感謝しています。ありがとうございます。

赤松さん:私もそうです。お父さんが亡くなってから、半年くらいかな(活動に)行ってないんですよね。それで2人(柚岡さん・佐藤さん)とも私のところにいらっしゃいって。「赤松さん」て聞こえているけれども、来たら電気を暗くして。2人が一生懸命来てくれてるのに悪いなあと思いながらも、留守にして帰ったらまたあくる日にいらっしゃって、今度はもうしゃあないねて諦めて。

そしたら、佐藤さんが「ようわかります」て。2人がとても協力してくれて、ありがたいなあ、こんな人でもこないして来てくれて、喜んでいます。今でもとってもうれしくて、こんなん行くよと呼んでくれて、うれしかったです。

柚岡さん:私ね、この映画が別の監督によって作られていたら、被害者の悲劇・裁判の起伏を見事に記録したドキュメンタリーという評価を得て良いと。ところが、(ここから監督怒らんといて)これを作ったのが「ゆきゆきて神軍」とか「全身小説家」の原一男だった。僕はこの映画は、もちろん若いころに観ています。あの原一男が、こんな映画を作るかというのが最初に思ったことです。もっと言えば原さんに相応しくない映画ではないかと。さらに言えば、失敗作ではないかと僕は思っておりますえれども、さっき質問をされた方はそういう意識はなかったんでしょうか。

Q2:団長の柚岡さんに質問があるのですが、今回のアスベストの裁判を受けた後の、「煮え切らない判決でまだ熟たるものが残っている」という言葉があって、私もすごくそれを感じるんですけれども、それ以降どんな変化があったか・そこが深められたかを伺えたら。

柚岡さん:答えになるかどうかわからないんですけれども、ある所で私は裁判の帰結に対して「生煮え状態だ」って言うたように憶えています。今もそれは、変わっていないんです。それは、アスベスト=石綿は最初ドイツからの輸入品で高級品だったんです。それで、日本でできないかと思ってに今で云うベンチャーの男が泉南にフラリと遊びに来て、ここに川の水と繊維労働者がたくさんおると直感的につかみました。

もう1つは、低賃金の労働者なんですそこの人たちは。「そこで石綿やったらええわ」とやりかけて、100年。2006年まででしたkら、ちょうど100年なんです。計ったように100年。裁判は、補償=お金をもらって「堪忍してください」って言うたその期間は、ナントその内の13年間に働いた人に限った。これが僕は許せないです。

しかも、賃金労働者とか子どもの頃に暴露した人は、全く始めからお呼びでなかったんです。こういう裁判の結果を以って、「勝った。勝った」って言えるんかいという話を、ほうぼうでしたんですよ、僕は。

弁護士は、日本という国家が石綿を認めたことを以って「勝った」と言う。。この「国家の無策に、この被害の責任がある」、これは世界で最初なんです。ここにまさにこの裁判の意義があったと、僕も思うし弁護士もそれを1番言いたい。言うてることは正しいんですよ。正しいけれども、現実に僕の周りに居てる彼らを含む被害者は少なくないわけですわ。みなさん、「泉南勝った、勝った」って言って最後に8億やらえらい金をくれましたが、被害者に渡ったお金は8年やって知れてますわ。最初に僕は言ったんですよ、「頑張ったらまとまった金を持たしてやるよ」とね。ところがまた延延走法してきたんですけどね、そうはならんかったもんなぁ。

それも含めての、「生煮えなんだ」これは。

原監督:私は実は、8年撮影をしている間中「なんておとなしい人たちなんだ」と思っていました。それをカメラの後ろでじいっと我慢して聞いているのができなくなったんです。だからもうイイや、画面の前に出て直接その不満をぶつけちゃえーって居ても立ってもいられなくなって画面の前に出て、映画の後半私が唐突に出てきます。私の動機はそういうことです。黙って見ていられなくなったんです。

映画の作り手だって運動の中の一員じゃないかと、自分で勝手に理屈を付けて不満を直接ぶつけようという風に、弁護団やら1人ひとり呼んで聞いていたあれはそういう私が我慢できなくなったことの表われだと理解していただきたいんです。

それでもう1つ、映画を観た人が私が原告団に挑発したから後半ああいう言う風に、言ってみれば厚労省にケンカを売るようなシーンになったんじゃないんですかという意見がありますが、これは違います。私がそういうような思いを持って行ったからと言って動くような人たちじゃありません。私なんかが挑発して動くような人だったら、もっと早く動きますよ。動かないところが、つまり普通の人の普通なところたる所以だと思っているんです。だから、カメラを回しながら私はいつも思ったのは、「じれったいな。こういう時に奥崎さんだったらもっとダーッとなってやったのに」という思いは持っておりました。

私が持っている不満は、編集している時にも実はずっと続いているんです。映画ができてしばらく経って、山形で上映会をした時に、映画祭で観た人で「原さん、お面白かったです」と言ってくれる人が、私の思惑よりもかなりたくさんいてやっとホッとして、自分が作った映画の総括を肯定的にできるようになったんです。

不満を持ち続けて作った映画の総括・持っている意味を、今一生懸命考えていて、それは私自身の出自というところに、もう1回この映画を作ったことが引き戻してくれたなと思っています。

泉南の人たちは、流れて来た人・最下層の人たちです。だから簡単に貧民にされちゃうんですね、国家から。水俣も同じ構造です。福島も、おそらく同じ構造です。最下層の人だから、流れてくる人たち、韓国からも流れているでしょ。私もそうだという思いが、この映画を作ることで再認識させられたなと思っているんです。

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■ 「ニッポン国VS泉南石綿村」劇場情報