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被爆体験談:原爆投下直後に広島市内で14歳が目にしたものとは

 

 

8月11~13日に、川越市で「原爆絵画展」が開催されました。会場のウエスタ川越は、市民のための大規模な施設です。12日には被爆者の体験談があるので、ぜひ聞きたいと行ってきました。その時の話を、要約してお伝えします。

 

絵画展チラシと看板

 

原爆絵画展とは
1974年、NHK広島放送局に1人の被爆者が惨状を描いた1枚の絵を持ち込みました。それをきっかけに集まった市民の絵画は、現在までに3600点になります。

40年前からは、原爆絵画展実行委員会がこれらの絵を保管している財団法人広島平和文化センターから借り受けて、全国各地で絵画展を開いています。川越地区では、これまでに37回・毎年開催してきました(当日配布物より)。

 

 

 

 

 

会場には、60枚の作品が日本語と英語の両方の解説付きで展示されています。以前は原画そのものだったのですが、あちこちで展示され傷んできたためにコピーを貸し出すことになったとの事です。コピーながら、色鮮やかで体験者の思いや気持ちは十分に伝わる作品ばかりでした。また、チェルノブイリ・福島原発を写した広河隆一さんの写真・第五福竜丸の模型・被爆したガラス片や瓦なども展示されていました。

 

今村英夫さん

被爆体験談:1945年8月6日、当時14才で広島師範学校予科1年生だった今村英夫さん(87才)

 

 

爆心地から2キロの所にある比治山近くの学校の寮から1.5キロ離れた本校まで毎日隊列を組んで通っていました。いつもすれ違う女学生の隊列が見えると自然と歩調がゆっくりとなり、お互いに教官の目を盗んで手を振ったりしたものでした。

学校に着き剣道場にいた時、目の前に強いフラッシュをたかれた様な強い光が刺し、その建物の窓際にいた者は皮膚がべロッと剥けてしまいました。本校からは、比治山の向こう側に市の中心部が見えるはずなのですが、何もないのです。寮はどうなっているのかとたまたま無傷だった自分は仲間と爆心地に向かいました。途中でヌメヌメとした雨も降ってきました。

 

 

朝すれ違った女学生たちは、上半身は白い制服を着ていたので焼けてはいないのですが、若い顔と黒っぽいモンペを穿いた下半身は焼かれて大勢倒れていました。見ると、防火水槽の中に2人の女学生が入っていたので、「こんな処にいたら危ないから早く出て逃げて」と言うと、「下ばきを焼かれて穿いてないから、恥ずかしくて出られない」と言うので、自分たちはシャツを脱いで渡してあげました。彼女たちはそれを腰に巻いて逃げていきました。

 

 

その日は、爆心地は立ち入り禁止となっていたので帰りました。途中、川の中は死体が沢山浮かんでいて、川の斜面にも沢山の人びとが逃れ、疲れ果てて座り込んでいました。その人たちは潮が満ちて来た時にはとても動けなくて、そのまま沈んでしまいました。

行きも帰りも、倒れている人から「水、水」と言う声が沢山聞こえてきました。でもどうする事も出来ません。学校に帰り着くと、剣道場の中はケガ人が一杯で食べるものも無く、自分たちは校庭で寝ました。

 

 

翌朝、女の子のつんざくような泣き声で目を覚ましました。見ると、女の子は亡くなった母親の体にしがみついて泣いているのでした。遺骸を片付けようとしても女の子が泣きわめいて離れないのを見て、軍医さんが「しばらくこのままにしてあげなさい」と言っていました。市内の作業から帰ってから聞いた話では、その女の子はちょろちょろとしか出ない水道の水を蛇口から両手でためて、それを母親の口に運ぶ作業を何回も続けていたそうです。そして、疲れ果てて遺骸のそばで寝てしまった時に遺骸は片づけられ、女の子は孤児として引き取られたとの事でした。

 

 

2日目の作業は、市内に入り死体とケガ人を分ける事でした。

その最中、死体の中から、すかな声で「学生さん、学生さん、この子を水につけてください」という声が聞こえたのです。教官から「ケガ人のいう事にいちいち答えるな」と言われていたのですが、死んだと思っていた人からいきなり声をかけられた訳ですから、思わずその赤ちゃんを抱きあげました。そして足元にぎっちりと置かれている遺体の合間をかき分けながら、一緒にいた友人とすぐ近くの川に抱いて行きました。

勿論、川も死体だらけで隙間もありません。友人は靴を履いたままその水の中に入り、死体をよけて小さい隙間を作り、自分たちは手ぬぐいで赤ちゃんの体を拭いてあげました。そしてその手ぬぐいに川の水を含ませて、お母さんの所に帰りました。赤ちゃんを渡して、顔を拭いてもらおうと思って手ぬぐいを渡すと、お母さんはその手ぬぐいをチュウチュウ吸うのです。でも自分たちは「その水は・・・」とも言えず黙って見ているだけでした。ちょうどそこに兵隊さんが来たので、自分たちはその場を去ったのですが、その時お母さんが「学生さん、ありがとう、ありがとう・・」と言うのです。その後この年になるまで、あんなに心から「ありがとう」と言われた事はありません。

そして、友人が自分に尋ねてきました。「おい、あの赤ちゃん生きてたか?お前はずっと抱いていたからわかるだろ、動いたか?動かなかったと思うのだけど」でも、自分は、本当にそれがわからない。動いていたか、動いてなかったか。生きてたか死んでたか、本当にわからないのです。

それまで、戦争は元気な兵隊さんが元気に戦地に行くもんだと思っていました。それなので、今まで見た事もない悲惨なけが人や死体を沢山見て、「この戦争、日本は勝てるのか」と思ったのを覚えています。

被爆したかどうかですか?自分は、2日目で髪が抜けはじめました。しばらく生えてきません。でも今はありますよ。それから、とてもだるくなりました。あまりにだるいので、呉の実家に帰ってしばらく寝ていました。今でも、とてもだるくなる時があります。ヌメヌメとした雨は黒い雨だと信じてますが、学者たちはあの場所に黒い雨が降るはずは無い、と認めない。私は、原爆症とは認めてもらえないのです。

 

 

 

(今村さん自身が描いた絵を指して)裸で座り込んでいる女性は何かぶつぶつ言っていましたが、周囲の大人から「気がふれているから、かまうな」と言われました。次の絵は。赤ちゃんを抱いて目をカッと見開いたまま大やけどをして死んでいる若い母親です。兵隊さんがそっとその目を閉じてあげていました。

 

 

みなさんの中で三途の川に行ったって方、います? 私は3回行きましたよ。病気や訳分からずにぶっ倒れた時とか。よく言うではないですか、明るいお花畑で蝶が飛んでいたりとか。でも自分の行ったところは3回とも真っ暗なんです。真っ暗なトンネルのようで、その先が明るくなっていて、そこに死んだ母とお地蔵さんが立っているんです。母は帰れと言うように手を振っていて、お地蔵さんは「何しに来た。まだお前にはやることがある、けえれ、けえれ」と言うんで帰ってきました。だから、(机の上に置いてある)この水くれ地蔵を作ったのです。このお地蔵さんは、ぜひ広島のどこかに納めたいのです。「水くれ、水くれ」という声があちこちから聞こえたのです。戦争は絶対にしてはいけません。絶対にしてはいけません。

 

体験談を聞いて

途中、話をしながらいろいろと思い出す事が多いのでしょう。時どき、言葉につまったり涙っぽくなったり。過去の経験を語るのはとてもつらいものがあるのだなあという思いと、やはり体験した話を直に聞くというのは、テレビなどの映像の中で聞くのとは全く違うという事がよくわかりました。

戦後、体のだるさゆえ勤めてもなかなか長続きしなかったそうですが、得意の絵を描く技術を生かしてデザイナーとして生計を立てて今日まで元気に過ごしています。これからも出来る限り、体験を伝えると言っています。【文・写真=川越やよみ】